昭和48年01月18日 朝の御理解



 御理解  第54節
 「徳のないうちは心配する。神徳を受ければ心配はない。」

 昨日ある大きな教会の、ご信者さんが参拝して、合楽の先生より他に願う方はないと思うて参りましたと言うて見えられました。と言うのはどういう難儀な深刻な問題であろうかと。もう実にそれを本当に恥を忍んでと言われるから、なんか家庭問題か何かその事であろうかと私は思うた。所が実は私のまぁ大きな教会ですから、古いお母さんが熱心に信心しておられた。そのお母さんが子供達の一人一人をです。
 どうぞ神様の御用に使うて下さい。お役に立つ子供言わば孫の中からでも、そういうおかげを頂かせて下さいと言うのが切願いだったらしい。切なる願いだったらしい。そこで私共兄弟は御用の端と言う訳でもないですけれども。兄弟全部有名な楽人さんですお二人とも。本部でもこの先生の右に出るものはおるまいと言う位に、素晴らしい名手です。と言う程しの親の祈り願いと言うものが、その様な風におかげ頂いた。
 けれども母の願いと言うのは、自分の家の所謂一門から、どうしてもお道の御用に、直接お取り次ぎの御用に携わらせて貰えれる。人の難儀を取り次ぎ助けさせて貰える程しの人を、どうでもと言うのが、母の願いでございました。ですから母の願いを受けて、私が、又自分の子供達に、その事の願いを掛けさせて頂いておりましたら、長男が今年大学をでまして、本当にあんたがお道の教師になってくれるなら、お母さんは今死んだちゃよかと、思う程しに考えておると。
 これはねお母さん僕がお道の教師になって、あんたが今死ぬならなあにもならんから、お母さんがそれ程しに喜ぶなら、僕は一つ一番踏ん張って大学卒業と同時に、学院に行こうかと言うて、教会に二、三日まぁ修行に上がった。本部の方にもちゃんと学院に手続きも取らせて貰った。ところがたまたま、そこの出社の先生方の会合があった。ですから言うなら、先生の卵ですから、先生方の話も聞いとくが良かろうと言うので話を聞いた。聞いておる内に幻滅を感じたんです。
 先生方の所謂裏話を聞いた。是は本当に手続きも取って母があれだけ、喜んどるけれども、これはもうお道の教師は止めたと。帰ってからお母さんあんたが、がっかりするかも知れんばってん、僕は他の事で親孝行するけん、お道の教師になるとは止めた。だから断わってくれと言うて来た。まぁそれこそ目の前が真っ黒になりましたと言うた。その位にです、例えば道の事を思い人が助かる事を、親子、孫三代に渡って祈り願い続けておると言う事、素晴らしい事ですね。
 それでも皆さんでも一つどうぞ皆さんの、子供の中からでも、孫の中からでもです。本当にお道の御用にでも立たせて貰える位な、おかげの頂ける願いを立てなければいけんです。私の婆なんかは晩の御祈念をさせて頂きます時に、名前を言うて私の名前弟の名前、妹の名前を言うてどうぞ大坪総一郎が、大坪総一郎があなたのお役に立ちますような氏子にお取り立てて下さい。これが願いでした。
 それを横で子供乍らね聞いてるです。だから私はこれはこういう事にならなければ、婆の思いに応える事は、出来ないなぁと言った様なものが、何とはなしにあったんですね心の底へ。いわゆる潜在意識の中に、そういう物が働いておったものが、矢張り今日の様な、おかげを頂いたのではなかろうかとさえ思う位です。祈らにゃいけません。思わにゃいけません。お互いの願いと言うものが、例えばね本当にもうマイホーム的な、ただおかげを頂いて、商売も繁盛致しよります。
 家庭も円満でおかげを頂いております。健康でもございます。もう本当に思うと涙がこぼれる程有難いと言う信心に留まっておっちゃならない。勿論そう言うおかげを頂かねばなりません。昨日私久富先生と色々お話をした。その事を昨日の合楽会でございましたから、合楽会の後にその事を話させて頂いた事でございますけれども。先生先日ある事をお願いさせて貰いよりましたら、昨日一昨日の晩、日田の教励会の晩でした。御祈念を私が受け持った。そしたら小さい小さい金光様を頂いたと、小さい金光様。
 有難い素晴らしい。私はある時に朝ここで天地を遥拝致します時に、天に向かって拍手してから、空を仰がせて頂いた途端ですね。もう大空一杯と感じられる様な金光様を頂いた事があるです。問題は自分のね、自分の信心いかんで、金光様を小さくも出来れば、大きくも出来るんですよ。それを金光様を現すと言う事。久富先生当たりの場合でも、それは素晴らしいですよね。金光様いくら小さくても金光様です。
 けれどもこんなに小さい金光様。私が頂いたのは、それこそ大空一杯と感じられる程しの金光様を頂かせて貰って、久富先生のお話を聞きながら、本当に、その金光様を、いよいよ、大きくして行く事だなぁと。それはね結局大きな願いに立つ事であり、その願いが、段々充実して来る時に、私は大きく金光様を現わして行く事が出来るんだと思うんです。最近私の祈りと言うか、願いはどうぞ合楽教会がです。
 一大発展を遂げさせて貰い、大御比礼を頂かせて貰い。沢山の氏子が助かるおかげを頂かせて下さい。もうこれはね限りなくこの事を願うのです。もう本当に何ヶ月前の思い祈りとは全然違うです。それが神様どうぞ道の比礼にも繋がり。世界言うならば神願成就、和賀心時代を創ると仰せられる。その和賀心時代を創る事のそれにも繋がる様な、おかげを頂くために、どうでも合楽教会が大教会にならなきゃならんのであり、もう沢山の人が、助からなければならんのである。
 これがどうでしょう。もうこの位信者がおるから、もう生活は安定したしもうぼちぼち、やって行けば良いと言った様なそういう事にね、安住してはならない。それに腰掛けてはならない。公儀名分が所謂筋金が立つでしょうが。只発展のおかげが下さいと言うだけじゃないです。そういう願いもです。所謂五つの願いに基づいての願いなのです。合楽教会がどうぞ一つどこにも類のない程しのです、大発展を遂げる事を願わせて貰う。それも道の御比礼に繋がり世界真の平和に繋がる。
 和賀心時代を創って行くという事の上に繋がる。ここにそれがもし顕された時です。私は天地に一杯の、金光様を顕した時になるのじゃなかろうか。昨日私は久富先生のそのお話を聞きながら、ははぁこういう大きな金光様を、顕してくれと言う神の願いであったなと、私は思いました。改めてその事を感じさせて頂きました。その為にはです私どもの信心が少し成長する。そこに試験が有る。又次のおかげを頂く。
 又お試しが有る。それを私どもは乗り越え乗り越えして行く信心からでなからなきゃ、只言うておるこつばっかり、大きな事を言うたっちゃ出来んもん。これは例えば合楽で五つの願いと言うものがここ二十年間の、例えば今までの信心願わんでも頼まんでもおかげの頂ける信心。それを私は先日から居候的な信心だと。居候三杯めには、そっと出しと言うようにです。それでも一生懸命その居候が働くから、さぁお茶の時分にお茶を飲んで下さい。さぁご飯ですよとご飯も呼ばれて来たと言う感じなんです
 だからそういう信心になって、親ではないか子ではないか、何処に気兼ね遠慮いるものかと言う事が分かってきた時です、願わなければおられなくなってきた。しかもその願いは私の私利私欲の物ではない。そういう道の比礼の上にも言わば世界中のです。人間氏子が、本当の幸せを頂かせて頂く事の為に繋がる程しの願いなのです。ですから皆さんの場合はです。私が感じておる程しの言うならば、いわゆる公儀名分が立っていないかも知れません。筋金が立っていないかも知れません。
 三つの方の願いは出来るけれども、後の二つの願いは、どうも不純な物と言う様な事かも知れません。昨日のあのジョウゴの話じゃ無いけれども。口は大きなジョウゴが付いとるけれども、中に入る所ところ一升瓶に入って行きよる所は小さい穴。しかもその不純なもので詰まっておるから、いくら上から入れて貰っても中には入らんと言った様な物かも知れません。けれどもそこは詫びをさせて頂いてです。
 親先生の信心に合流すると言うか。私はこの事をです、昨日久富先生に話した事です。合楽会の時にも話したことでしたけれども、最近久富先生と一緒にお風呂を頂きます。私が、お風呂を上がらせて頂くたんべんに、久富先生必ずお風呂の蓋をしてから、上がって来て下さいよ。これは私が毎日毎日言うことなんです。どうでしょう皆さんならそれを、どういう風に受けられるでしょうか。はぁもう知っとります分かっとります。と例えば言うならそういう風に、受けはせんでしょうか。
 例えば物を色々頼みますよね。ちょっとあればこうしといて下さい。はぁしようと思いよりました。とこう言うなら頼んだ者は馬鹿んごたっです。もう先生ばっかりは、毎日毎日、同じ事ばっかし、さっち風呂から上がる時に、風呂の蓋だけは必ずして上がって来て下さいよぅち。私が言うんですよ。そしたら先生が「ハイ。」これだけです。もう私はこれには実際驚いて、しかしもうここまで続いたから、何日も何日もここまで続いたから、今日はちったハイハイち言うごたる風な言い方をするかと思うた。
 ハイ、ハイち言う時にはです。もう分かっとりますち言う事なんですあれは。もう先生分かっとりますが、必ず蓋はしてきますがと言わんの。久富先生蓋は必ずして来なさいよと。私はこげん言うて上がるんです。必ずもうしかも長い事それが続いて来たです。そこで、私はそれを言うたんべんに、心がハラハラする事があるんです。ハイハイち言うて、二つ返事で、言う様な事がありゃせんだろうかと思うて。そして昨日もう今日ぎりで言わん。と思うて申しましたらやっぱり「ハイ。」と言う事だけでした。
 だから私はもうこれから、風呂の蓋をして来て下さいてんなんてん、もう言わんよというて言うたことでした。私は信心というものは実にデリケートです。そこにねおかげの受けられる受けられないのそれが有るです。成る程昨日小さい金光様を頂いたと言う。成る程そうだなぁとこう思うた。思えば思うほどです。本当に家庭の上にもおかげを頂いて、最近は大変おかげを頂いておる。最近それが本当おかげだなと、思う事は久富先生のところの、毎日毎日家族のお届けがあるです。
 今迄かってなかったです。これは家族の上におかげを頂いておる証拠でしょうが。しかも家族の何人ものお届けが必ずあるです。おかげ頂きよるなぁとこう思うんです。そこで私が申しました。先生それに甘んじちゃならんよ。あんたが有難いち思うとる位に、家内も思ってくれる事を願わにゃいかん。子供達もほんにお父さんのおかげでと、言う所まで行かにゃいかん。私は只マイホーム的なです。もう本当におかげを頂いて体は健康でございます。おかげで子供達が言う事を聞いてくれます。
 家内は私に従順でございます。そういう例えばおかげを頂かなければならんです。けれどもそれに腰掛けたらお終いです。それ迄の事です。ですか本当に家庭に不和のなきが元と言うことはね。そういうこっとりとも言わんという事では無くて、信心で言う所の家庭に不和のなきが元と言うのはね、拝み合うて行けれる生活と言うことなんです。言うならばですお父さんが本当に涙のこぼれるごと有難いとこう言うたらです。家内も本当にお父さん有難いですねとこれなんです。
 お父さんが幾ら涙の出るごと有難いと思うとったっちゃ、家内がフンち言う様な気持ちでおるなら、例えば家内が参っても来んちゅうならば、やっぱりそうなんです。もうお父さんが有り難やさんでもう、本当ちこう家内が言うなら、どうなります。久富先生本当にあなたが、有難いと思うておるその有難い思いをです。家内にも思わせ子供達にもにも思わせ、そしてその有難いの思いが、家族勢を揃えての信心という事になった時が、ほんな家庭円満ばいと言うてお話をした事でした。
 そうでしょうが只コットリとも言わんちゅうごたる家庭なら、信心の無かったっちゃ何処にでもおるとじゃけん。商売繁盛しよりますち健康でございますち言うなら、沢山世の中にはおるとじゃけん。けれども信心させて頂くという事は、拝み合うて行けれると言うこと。それは有難いなぁと主人が言うたら、家内も本当に有難いですねと、それが拝み合うこと。子供が本当にお母さん、あなたの信心で本当やっぱおかげ頂くねと、子供が言うてくれた時が拝めた時なんです。
 ですから私が一番初めに申しましたように、お互いの祈りの願いと言うものがです。どれだけ段々成長して行っておるかという事なんです。皆さんの中にどうぞあんたげん息子ばいっちょ、学院にやらんのち言うたら、もうこうこうして後ひざりするでしょうね、皆が合楽の人達も。どうでしょうか願わにゃいかんです。例えばそんなら五人も六人も、子供がおるならその中の一人位はお道の御用に使こうて頂ける様な、私は願いを持たなきゃいけんです。それも今合楽で言われておる。
 いわゆる金光様を大きく現すことの為にです。そういうおかげを頂かせて貰う。してみると、今日のご理解のです。「徳の無い間は心配をする、神徳を受ければ心配は無い」と仰せられるけれども。徳を受ければ受けたでの心配があるという事です。良いですかお金の心配もせん。色んな問題が起こったっちゃ驚きもせん。神様にお願いをすればお取り次ぎを頂けばと言う心の中に安心がある。おかげで商売も繁盛しよる。言うならマイホーム的なおかげを頂いておる。そこに心配はないという事。
 だからもし心配は無いからと言うてです。そしたら人間という者は必ず腰掛けるです。朝参りをばしゅうと思いよりますばってんが、目が覚めませんと言う事なって来るです。これはもう絶対そうです。そこで私どもはその時点に於いて、次の高度な心配が出来なければ信心が成長しよるとは言えないです。言うなら親戚中の事が心配になる。赤の他人の誰彼の事が心配になる。それこそ天下国家のこが心配になって来るという様にです。言うならばわが心が神に向うて行っておるのですから。
 神様がなさるような心配が出来なければ駄目です。出来てきよらなければ、あなたの信心はもう停滞しておるという事になるのです。本当に這えば立てです立てば歩めです。その神様の願いに一歩ずつでも近づいて行くという事はです。これ迄の事は一つも心配はない。もうこの位な問題なら、全然おかげを頂いて、それは他の信心の無い方達なら、もう不安で不安で晩が眠られんと言うごたる様な心配事が。
 出来ておっても一つもお取り次ぎを頂いて、お願いをしておる事だから心配せんでも良いよと、言えれる程しに安心しとる。その心配がです。もっともっと純粋な高度な心配になって、向上して行かなきゃいけない。そこからです久富先生が、頂いておられる金光様。私が頂いておる金光様の相違が、金光様を現す度合いと言うものが違うてくる。だからそんなら皆さんがです。本当に以前の私だったらこん位の事だったら、すぐ腹立てよったろうばってん。
 もう腹立てる所かお礼を申し上げておるとか、心配をせんで済む様になったとかと言うならば、もうあなたはそこまでの徳を受けた訳です。だから心配もなからなければ腹もたたんのです。だからと言うてそれに腰掛けておっては、駄目だという事を、今日は聞いて頂いたですね。成る程今迄心配しよった様な事には、心配せんで済むけれども。次には、又それこそ信心の無い時には、思いもしなかった様な事柄が、心配で心配で堪らなくなって来る。だから切実に神様にもお縋りをする。
 とてもとても朝ゆっくりどん、寝ちゃおられんという事になって来るのじゃ無いでしょうか。これの積み重ねなんです。お徳と言うのは。その過程に於いてです。信心が進んだら用心しなされや、神様のお試しが有りますぞと言うことになる。そこん所を久富先生の例を取りましたがです。私の心の中にあんまり毎日毎日の事ですから、今日は失敗しなさりゃせんじゃろうかという思いが、有るんです。ところが見事にもう毎日毎日の、上がって来る時には風呂の蓋をしなさいよち。
 あぁせからしかという態度の、「た」の字も見えなかった。それはどういう事からでしょうか。もう親先生の言われる事だけには絶対のものを、久富先生が感じておられるからだと、私は思うです。夕べ私は先生に申しました。もうあんたは絶対死んだなら、私の所に来る。私が極楽行くなら、あんたも絶対極楽にあんたも来るよと。信心は例えば出来とらじゃったっちゃ。是は私に対するところの帰依なのだから。
 どんな素晴らしい信心が出来とるとか、信心しておると言うても私の言う事が聞けない様な事ではです。是は必ず私の世界が有るです。金光大神の世界の中に、大坪総一郎の世界が有るです。だから金光大神の言われる事に、帰依させて頂く時に、金光大神の世界に、私どもが行けれるように。親先生の信心に合流すると言うか、帰依すると言う所からです。親先生と同じ世界に住む事が出来るという事が言えるでしょう。
 そういうおかげを、頂かせて頂く為にもいよいよ嫌が上にも、信心を進め徳を積んで行く所の過程に於いてはその時点時点で、必ず心配がある筈だと。皆さんも願わなければいけません。例えばここに中村さんがおられる。どうぞ神様中村履物店が、大繁盛のおかげを頂きますように。それは合楽教会の発展につながる。道のヒレイにつながる。大きく言うならば、和賀心時代を創ると言うほどしの、神願成就の事の、それにつながる事の為に、中村履物店がです。
 昨日よりも今日どうぞ昨日は一万円の売り上げでしたから、今日は一万五千円の売り上げが頂かせて貰えるような願いを、もう繰り返し繰り返ししなければいけない。五つの願いに基づいて。けれどもちゃっと、我情我欲の為じゃないでしょう。筋金がちゃっと入っておるでしょう。神様の願いが成就する事の為に、繁盛させて頂かなければおられない思いが、その願いになって来るからなのですよ。
 そういう時に初めて神様と私共との間に、親子としての情というものが通うて来るのです。こげなご無理な事はお願い出来んじゃろうと言う時には、まぁだ居候的な信心だと知らなきゃなりません。今日の五十四節を、その様な風に頂いた。皆さんも願いがねもっと本当に高度な、しかも純粋で本当に神様に喜んで頂く様な願いが祈りが、持てれるおかげを頂いて貰いたいと思うですね。
   どうぞ。